庶民の夢として愛され、親しまれ、定着したファンをもつ宝くじ。
その始まりをご存知でしょうか。
実は日本の宝くじが始まったのは江戸時代だったのです!
今回は宝くじの歴史を見ていきましょう。
日本の宝くじは、江戸時代初期にお寺で始まりました。
大阪府箕面市にある「箕面山瀧安寺」が富くじ発祥のお寺と言われています。
当時は、宝くじではなく「富くじ」と呼ばれていました。
元旦から7日の間に参詣した人の中から選ばれた 3人に福運のお守りを授けるというものだったそうです。
ですが、その形が段々と変化していきました。
他の寺社や民間においては金銭が当たる富くじが氾濫し、幕府より「人心を乱す」として再三に渡って富くじ禁止令が出されました。
しかし、当時財政難だった江戸幕府は寺社の修理費用等を援助することができませんでした。
これにより、江戸幕府は、寺社が修理費等の工面をするための「くじ」を売ることを許可し、これが幕府公認の富くじになり、今日の宝くじの始まりになったようです。
ちなみに、富くじの1等は突き留めと云い、金額は千両だったそうです。
現代のお金に換算するとおおよそ3,000万~5,000万円くらいになるようです。
しかし、幕府公認の富くじも1842年天保の改革で禁止されてしまいます。
1842年天保の改革後103年もの間、日本では公式な宝くじの販売は行われていませんでした。
その後、宝くじの原型になるものが販売されたのは昭和20年になってからのことです。
昭和20年7月当時の日本は戦時中。
軍事費が圧倒的に不足していました。
そこで当時の政府は、軍事費調達の為に富くじ“勝札”を発売しました。
ところが当選者を決める前に終戦を迎えてしまったため、負札という蔑称を与えられる始末となりました。
現在のようなスタイルの宝くじが売り出されたのは、終戦から2ヶ月後の勝札から3ヶ月後の昭和20年10月という早いタイミングで販売されました。
宝くじの歴史は古く、多くの人が宝くじに夢を膨らませていたのですね。
「富くじ」の愛称で親しまれていた宝くじですが、今のカタカナ名称に変わったのは約35年前。
1979年(昭和54年)のサマージャンボ宝くじ(第151回全国自治宝くじ)より、「ジャンボ宝くじ」と愛称がつけられました。
翌年の1980年(昭和55年)の「ドリームジャンボ宝くじ(第158回全国自治宝くじ)」の発端より、3大ジャンボ宝くじ(ドリームジャンボ、サマージャンボ、年末ジャンボ)がスタートしました。
その年の12月31日に、「第164回年末ジャンボ宝くじ」が開催され、事実上の「第1回年末ジャンボ宝くじ」がスタートしたのです。現在では最高の認知度を誇る“年末ジャンボ”ですが、1980年時点では、1等が3,000万円、2等が2,000万円、3等が500万円でした。
この時代、現在では存在しない「2k」、「3k」と呼ばれる等級が存在していました。「2k」とは、「2等」の組違い賞。「3k」とは、「3等」の組違い賞をさします。「2k」の賞金は、8万円。「3k」の賞金は、5万円でした。
宝くじも、時代によって柔軟に変化してきた歴史があります。
今後も形を変えながら、宝くじの歴史は続いていくことでしょう。