宮城県仙台市内の旧家や老舗の商店では、よくレジ脇や神棚などに、ある人物の古い写真や人形が飾られているのをよく見かけます。
そのモデルとなった人物は、江戸末期から明治にかけて福の神と称された伝説の「仙台四郎」です。
ビジネスにおいては商売繁盛、家庭にあっては招福万来のシンボルとして伝えられる四郎の、謎多き生涯を追ってみましょう。
仙台(仙臺)四郎は、本名を芳賀四郎(一説には芳賀豊孝)といい、安政元年(1855年頃)に仙台藩陸奥国(現在の仙台市)の鉄砲職人の家に生まれました。
四郎には今で言う知的障がいがありましたが、生まれつき、あるいは幼少時、川での転落事故がもとで脳に障害が残ったなど諸説あります。
話せるのは「ばあやん」などごくわずかな言葉だけだったため、「四郎馬鹿」などと蔑む人はいたものの、いつも明るく素直で、愛嬌のある笑顔をふりまく彼は、人々から愛される存在だったそうです。
市街を気ままに徘徊する四郎は、店先に立てかけてある箒を手にして勝手に掃除を始めたり、水撒きをすることがありました。
すると、四郎がそのように立ち寄った店はみな不思議と商売が繁盛し栄えるようになったため、「彼こそは福の神だ」という噂がほうぼうに広まりました。
また「四郎に抱っこされた赤ちゃんは健康に育つ」といった話も広まり、どこに行っても四郎は歓迎され、もてなされるようになったのです。
どんなに歓迎されても、気が向かない店や下心が見える店には決して立ち入らなかったとか、かつて四郎をいじめた店はその後没落したといったエピソードからは、四郎が並外れて鋭い直観力、霊力の持ち主であったことが強調されて伝わってきます。
そんな四郎は明治35年頃、47歳で亡くなったと言われますが、諸国を漫遊するうちに消息を絶ったという説もあれば、韓国の釜山港での目撃談が新聞に載ったりなどで、正確なことは分かっていません。
謎に包まれた四郎の生涯は、開運や招福を求める人々の心と共に、神秘性を増して語り継がれるようになったと言えるでしょう。
四郎の肖像写真は30歳頃に撮影されたものですが、大正の始めになって「明治福の神(仙臺四郎君)」というタイトルの絵葉書として発売されたことを機に、仙台四郎の名は全国に広まりました。
現存するオリジナル写真はこの1点のみですが、これを模した肖像画なども数バージョン存在します。
現在では写真をもとにした四郎人形の置物も人気で、商売繁盛の縁起物として親しまれています。
仙台四郎を祀る寺社としては、仙台市内のアーケード街にある真言宗智山派の三瀧山不動院、青葉区内の朝日神社などが知られています。
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